神々 Divinités


道祖神 Dosojin

 

わらじ地蔵と同じくらい素晴らしい作品。牧牛先生の想像力と工夫の結晶。道祖神からヒントを得て作られた作品だと思います。

言われないとあまり気がつかないがこの「仲良し」、足が3本しかない。それこそ「二人三脚」。

道祖神(別名:道陸神(どうろくじん)、賽の神(さいのかみ)又は塞の神(さえのかみ)。物事のはじまりはよく分からないらしいが、日本独特のもので、峠や村境によく見られる、疫神や悪霊をふせぎ止めたり、追い払ったり、村を守る民俗神。そしてこの世とあの世の境界に立つ神として、お地蔵さんと同じ役目を果たす所もあり
ます。

豊作、子孫繁栄、無病息災を願って幅広く信仰されている道祖神は、旅の安全を守る神、足の病気を治す神、縁結びの神としても知られています。所によって人気の高い神様。

様々な形をしている:一番よく見られるのは文字をきざんだ石。一番ポピュラーなのは男女2体の彫刻か絵画の神像。

男神が杓を、女神は扇を持つタイプ、男神が杯を、女神が酒器を持つタイプそして男神と女神が握手するタイプがある。

なお、長野県で道祖神の多い場所は穂高町近辺です、特に大糸線と高瀬川の間。

この「仲良し」は飛騨高山で手に入れた古い祠の中に「祭って」あります。毎日、「いい人と出会いますように」いつも祈っています。確かに沢山のいい人と出会ってますが、あの「いい人」にはまだ逢っていない。


大黒様と恵比須様 Daikoku & Ebisu

 

手のひらサイズで、二人一組の大黒様と恵比寿様。ルーペで見ると二人の太い耳、太い唇、細い目、爪も付いて、芸の細かい小さな作品です。

7年前、白馬村のいろり塾に案内したお袋が壊れかけたわらぶき屋根の一軒に入った。そこで、200年以上の煤で黒くなった小さな小さな3組の大黒様と恵比寿様を見つけて「フランスに持って帰ります」と言って、息子の私に怒られても、連れ帰ってしまった。1年経って、「来月、日本にくる」という連絡が入った際「あの大黒様と恵比寿様達はどうしているの?」「まだ、出してないの。まだ箱の中」。 私は怒りました。「なに!フランスまで連れて行って、1年間箱の中?日本に戻してあげて!!」

一ヶ月後、私はいろり塾までそれらの大黒様と恵比寿様を連れて行ったが、壊れかけてた家が完全になくなっていて、家主さんを探して見つからなくて困りました。

今、「フランスまで連れていかれてもフランスの青空を見たことのない」あの3組の大黒様と恵比寿様は我が家にいます。毎朝、知り合いが作ってくれた小さな小さな石のカップで水を差し上げています。

 


大黒様 Daikoku

高さ4cmの世界であれだけの表情を作れるとはさすが牧牛先生。福々しい顔、さわりたくなるくらい気持ちの良さそうなふっくらとした耳、豊かな表情:誰が見てもお金持で幸福そうです。かぶっているのはうるしで黒ぬりされた烏帽子(えぼし)、それとも頭巾でしょうか。

今度牧牛先生に会ったら聞いてみます。

本来、右手には打ち手の小槌があって、左手には袋があるはずですが、それが見当たりません。

「どうしてですか。」
「このサイズではあまりに小さい袋になるので、縁起が悪い。それに『台所の神』として見られるときにその大きな袋を持つんですよ。」
「納得。米俵は?」
「米は、自分で働いて買う物です。」
「納得。使者のネズミは?」
「小さくなりすぎて、ノミに見えるようになりますからやめました。」
「なるほど。」

牧牛先生はどこかフランス人に似ている。

大黒様は元々サンスクリット語でマハーカーラと呼ばれ、3つの顔、3つの目と6本の腕を持つ忿怒の戦闘神だったようです。仏教では三宝(仏・法・僧)の守護神として信仰されるようになりました。中国に入ってからどういう訳か「福徳をあたえる神」そして「食厨の神」や「台所の神」として見られるようになりました。

彼の名前の由来には三つの説があります。その一:体の色が青黒いことから大黒様と呼ばれるようになった。その二:インドの寺院の厨房に祭られているこの「台所の神」に毎日、油をかけて黒くなったことからこの名前を付けられた。その三:日本へ入ってから、神道の「大国主神」の読み方が似ているから「大黒」と呼ばれるようになった。

今、大黒様の像は二種類あります。・六臂の像:荷葉座に座っているのはヒンズー教の最高の神です。・二臂の像:右手には小さな袋包みを握り、左手には宝棒を持ち、石座に座っているのは寺院の守護神です。狩衣のような服を着て、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持って、米俵の上に立っているのは「食厨の神・台所の神・福徳の神」です。

この方は七福神の一人として庶民から「台所の神」「農業神」「福徳の神」として信仰され、愛されています。

 


恵比須様 Ebisu

七福神の一1人である恵比須様は漁業神で釣りざおを持っている。牧牛先生の釣りざお(恵比須様のもの、河童のもの)はいつも立派で、何年か前に「どこで竹のさおを手に入れているのですか。どうやって曲げているのですか。どうして釣りざおがいつも右手にしかないのですか。」と聞いたところ、笑いながら「竿の先の鈴」と言われた。一緒に笑った。そして座布団を一枚差し上げた。

折り烏帽子をかぶっている恵比須様は元々日本独特の神で、外国から海の幸を運んで来た神のようです。

大国主神と結びつけられた大黒様と同じように、恵比須様は大国主神の息子のである事代主神(ことしろぬしの神)と結びつけられました。従って、大黒様と恵比須様は「親子」の関係でつながっていると言われています。また、恵比須様は息子の事代主神とではなく大国主神と結びつけられたと考える専門家もいるため、大黒様と恵比須様は兄弟とも考えられます。大黒様と恵比須様が一緒に祭られるようになったのは室町時代の中期あたりです。

漁業の神になった恵比須様は、大抵釣り上げた魚を抱えた形で見られます。漁村では祠に入っている恵比須様も少なくありません。農村では田の神と同じように稲の豊作をもたらす神として祭られています。辛い、貧しい生活を送っている農民と漁師が福徳をあたえる恵比須様と大黒様を一緒に祭ったのは無理もないですね。

それに、海上交通の守り神、商業の神、竈(かまど)の神、荒神でもある恵比須様は万能な神様。今でも、玄関、台所、床の間に置いてある大黒様と恵比須様は農家やお寺を守って福徳をあたえてくれています。

大阪の西宮神社に祭られているえびす神に一言:「大きにありがとう!」。

なお、質問が二つあります。

1.福相の円満な顔を「恵比須顔」と言っているのに、地方によって、恵比須様の耳が聞こえない、片目でしか見えないことになってるのは何故でしょうか。

2.にこにこした顔を「恵比須顔」というのに、どうして遠く離れた未開地の人や異国人を「えびす」と呼ぶのでしょう?やっぱり恵比須様は元々外国から来たからなのでしょうか。

 


布袋さん Hoteisan

2002年の作品です。いつもの作品と違って今までなかった足の姿です。足で合掌?子供には簡単にできることですが、大人には無理に近いポーズですね。どこからこういった発想が生まれるのでしょうね。

10世紀の中国、四明山に住んでいたとされる「契此」(かいし)というちょっと変わった高僧は本当に存在しました。必要な全ての日用品を入れた袋を担いで杖を持ち、喜捨を求めて諸国を歩いた人物です。

この修行で開いた悟りで、いつもニコニコと町から町へ歩いていたこの太鼓腹の持ち主は、人々の問いかけに応じて吉凶や天候を占っていたそうです。人々に福を授けて回ったことから「布袋さん」と呼ばれるようになりました。

諸国を歩いた布袋さんの占いがよく当たっていたことから未来を予知する能力を持っていると信じられるようになりました。物事にこだわらないさま、福徳円満の姿から中国では少しずつ弥勒菩薩の化身という伝説が生まれました。

そして彼が担いでいたあの袋はこの世界の様々な悪い結果を招く要因をしまいこむ為に生まれ変わりました。



円満成就の守り神として、福神として信仰されるようになりました。そして日本では七福神の一神として親しまれています。七福神の中で只一人実在の人物です。

 


布袋さん(1) Hoteisan (2)

 

実は、この作品はいわゆる「コピー」です。と言いますのは飛騨高山の天照寺にすでに古い物が一体あります。私はこの「宝の袋を倉に押し込む布袋さん」を見て感動し、我慢出来ずにすぐ牧牛先生に連絡をして同じ物を作ってくれないかとお願いしました。

もとの作品には小判が5枚しかありませんでしたが、先生に無理を言って6枚の小判を付けて作ってもらえないかと頭を下げました。頭を下げられると弱い先生はちゃんと1枚余計につけてくれました。

しかし、その欲望からかバチがあったて、相変わらずスッカラカンです。

ちょっと話はそれますが禅宗では、禅の修行、悟りの段階を牛にたとえて説明したものに「十牛の図」があります。牧童が牛を尋ねるところから家にもどるまでの10項目にたとえた仏道修行のことです。

牛とは、真実の自己であります。牛を尋ね尋ねて、見つけだし捕まえて、飼い慣らすようにだんだんと修行が進むにつれて禅とはなにか、自己とは何か分かってきます。最後には修行成って布袋さまになり、衆生済度を実践します。

そこに至るまでを、十の段階に分け説明したものです。
一 尋牛(じんぎゅう)  二 見跡(けんせき)  三 見牛(けんぎゅう)  四 得牛(とくぎゅう)  五 牧牛(ぼくぎゅう)  六 騎牛帰家(きぎゅうきか)  七 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)  八 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)  九 返本還元(へんぼんかんげん)  十 入廛垂手(にってんすいしゅ)。

最後の入廛垂手の「廛」とは、市街のことです。布袋さまは市街に入って、常に粗末な着物を着て、徳利をさげ、無造作にはだしのままで酒や魚を買ったりしています。胸がはだけ顔が泥だらけになっても気にすることなく、いつもニコニコしていて人々は布袋さまを見ていると、なんとなく幸せな気分になってしまう。およそ、聖人らしくない姿で人々を救っています。

なお、小林功治先生は作家名として「十牛の図」の第五の「牧牛」を選びました。
「なぜこの名前にしたのですか。」
「牧牛とは、牛を飼い慣らすことで、野生にあった荒牛はほっておけば逃げだしてしまうからなんとか、かたくなな心を柔らかくし、野性味を穏やかに落ち着かせなければならない、ということです。私が、生きて死んでを繰り返し、長い長い時をかけて修行が進み最後は布袋さんになったとします。そうすると、もう技巧など考えず幼い子供が作ったような人形になるのです。ですから、私がどんなに一生懸命人形を造作したところで、幼い子供が作ったものには、かなわないのです。」

 


子風神 jeune Dieu du vent

 

2002年8月、ギャラリー 旬で「手のひらサイズ地蔵展」の際、DMカードに使われたものです。初めて作られた唯一の作品。

まだまだ若い雷神ですので角は一本しかありません。未熟な雷神はまだ雷光を発することができないのできっと前方に斥候兵として出されて、落雷を落とす所を探しているに違いありません。初めて目にした時、石から生まれた孫悟空と勘違いをしてしまいました。確か孫悟空には角がありません。でも似ていますね。

風神雷神
元々、風神・雷神は古代インドのバラモン教の神々で、仏教に取り入れられた天部です。

雲にのって天空を駆ける雷神と風神は、基本的に人間の言うことを聞かないものです。そして恐れられている怖い神です。両方とも「鬼」の姿をしているのは鬼のような怖い神だからでしょうか、それとも雷神・風神は我々が知っている鬼の元祖だからでしょうか。 

 


風神 Dieu du vent

 

よく描かれる風神の姿は逞しい体の、手の指は4本ずつ、足の指は2本ずつの巻き髪の青鬼です。背中に背負っているのは風の素を詰めた大きな革袋風袋です。その袋の口を開け閉めして、暴風を撒き散らします。そして我々、パラグライダーのパイロットを恐怖 (強風?)に陥れます。

雷神ともに肩布を首に巻き上半身は裸、腰から下に巻き付けた衣服(虎のふんどし?)のような物を着ています。


昔、風師(ふうし)又は風伯(ふうはく)と呼ばれていた風神は元々暴風をつかさどる神でした。災害をもたらす暴力的風。攻撃的な能力と性質と考えますと風神と鬼を結びつけるのは無理もありません。

この鬼のような逞しい体の風神には弱点が二つあります。鎌と凧。家の戸口の前に鎌を吊しておくと、この鎌にぶつかって勢いよく吹き風は切られて、衰えるとよく言われています。凧もやっぱり風を切ることで風神に嫌われています。

下の雷神とセットになっていて、黒い棒の上に立っています。

 


雷神 Dieu des éclairs

 

よく描かれる雷神の姿は逞しい体で逆立ちの頭髪の赤鬼です。太鼓を重ねた和太鼓を背負って、両手には亜鈴ばちを持っています。この鉄や木の棒の両端に玉を付けたばちを振り上げると、輪になった太鼓から轟音が天をつんざきます。そして頭に生えた角が雷光に浮かび上がります。

足の指は2本ずつ、手の指は、過去、現在、未来を表わす意味から3本ずつありますが5本指の雷神・風神の絵や屏風もあります。

雷神は日本の古代神でもあります。姿の見えない神と考えられ、「鳴る神」や「いかつち」という神格で古神道では恐れられていました。虚空にあって稲光と雷鳴を地上に降らせます。落雷や火事は雷神の祟りだと恐れられていました。

風神と違って弱点は別に無いようです。強いていえば、桑畑には落雷が落ちないと言われていることぐらいです。なお、このホームページでこんな方法を読んで、お家の周りに桑を植え、万が一落雷があったとしても一切責任を取らないことを前もってお断り致します。

この雷神は1998年の作品で白い土で作られています。5本指の種類の雷神で、実に「可愛い」ふんどしをはいています。空中に浮かんでるように黒い棒の上に立っています。角の代わりに2つの高い耳が付いています。7個の小太鼓を叩くのはご立派な2本のばちです。