牧牛先生の作品に出会った次の日、「六地蔵を作って頂けませんか」と頼んだところ、「喜んで。1年くらいかかるかもしれませんがよろしですか。」と先生から言われた。2年以上待った。待ったかいがあった。飛騨高山の「牧牛の個展」で発表されたこの「六地蔵」に初めてお目にかかれたとき、あまりの喜びで涙がでそうになった。
この作品は唯一の「六地蔵」です。それ以来、作られてはいない。「作ることもないでしょう」と先生が言う。コレクターとして、うれしいことです。ただし、友人でありながら良きライバルでもある、九州のいろはにほへ陶の藤澤さんがどうしても一組の六地蔵が欲しいとの事。「牧牛美術館」の設立へ向けて一生懸命準備している近い将来の館長としては、この作品がどうしても欲しい。
「先生、あと一組だけ作ってあげて下さい」と「先生、もう二度と作らないで下さい」と心の中「友人の安道礼」と「ライバルのアンドレ」がいまだに戦ってる。愛他主義と利己主義の戦い。人類生まれてから、人の毎日の戦い。
中国にはない日本独特のもので、15世紀未頃から初めて京都で六地蔵が見れるようになる。
キリスト教、イスラム教とともに仏教では、地獄と極楽という考えがあります。地獄へ行った者は、この現世においてそれぞれ行いによって、刑を受けなければならないと言われています。仏教ではこの刑を受ける場所が、一番上から天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六種類に分けられております。これを六道といいます。
その六道の中で最も極楽に近いのが天上、最も極刑の場が地獄だとされています。六道で苦しんでいる亡者たちを救う為に、六道の世界に行ってそれぞれの救済をしているのが、六地蔵なのです。
そのお地蔵様が、六道の世界で活躍されるとき、そこにいる亡者達に応じて六種類に変身し、それぞれ説法の仕方に違いがあります。そして、その救いの方法というのが、持ち物によって示されているのです。
天 道(てんどう)は美しい、楽しい世界のようです。美しい音楽が流れて、かぐわしい香りが漂っていて、心地よい風が吹いている。それに道は玉石で作られていて、周りの木には果実が沢山ある。
喜びの深い状態にいる天人はいつでも美味しい食事が食べられる。残念ながら、環境の変化及び不運によっての欠乏の状態を常に恐れている天人の寿命は400年で、やがて歳をとって死んで行きます。
死が近づくに連れて5種類の症状が現れる。経説によってそれらの症状は差異がありますが一番耳にするのは:衣裳垢穢、腋下流汗、頭上花萎、不楽本座、身体臭穢。
こういった恐れや五衰で苦しんでいる天人たちを救うのは天上の日光地蔵です。
この地蔵の右手には経巻き又は経本、左手にはあらゆる苦難を取り去る宝珠。両手で柄香炉(えこうろ)を持つ地蔵もいる(大堅固地蔵/堅固意菩薩)。
「人道」とはこの世、つまり人間の世界。欲、恨み、ねたみ、といった煩悩が溢れている迷いの世界。この世界で生きている私たちは八つの苦しみに悩まされている。それは、生、病、老、死そして求不得苦(ぐふとくく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)、愛別離苦(あいべつりく)です。
こういった八苦から私たちを救いだしてくれるのは除蓋障地蔵です。
この地蔵の右手には施無畏(せむい)、左手にはあらゆる苦難を取り去る宝珠。合掌をせずに数珠を保持する除蓋障地蔵もいる(大清淨地蔵/持地菩薩)。
施無畏(せむい)とは肩の高さにあげた、手のひらを前にして、そろえた五本の指を上に立て、恐れや迷いなどを取り除く印相(いんそう)のことです。菩薩の威力、方便で衆生の種々の畏怖を取り去って救うもしくは大胆不敵さを与えてくれる印。
宝珠とは不思議な宝のたまで、民衆の一切の願かけに対し、それを成就させてくれる仏の徳の象徴。
修羅道(しゅらどう)とは心の安らぎのない、戦いに明け暮れている世界のことです。
この世界の苦しみから救いだしてくれるのは持地地蔵です。
この地蔵の右手には仏の教えの言葉を書き記した書籍又は信者の守るべき教えやきまりを示した神聖な書が入っている箱。
左手にはこの世界のあらゆる苦難を取り去る宝珠。
「なぜこの持地地蔵にはあるべき宝珠がないのですか」と聞いたところ、牧牛先生の答えは「こんな大事な箱は両手で持つべきだ」でした。
それなりに納得行く答えですね。戦いに明け暮れているこの世界の死者達は守るべき教えと決まりはあまりに多いのでこの箱は確かに重いでしょうね。
でも物は持たず、合掌のポーズをとる持地地蔵も多く見られます(清淨無垢地蔵/宝印手地蔵)。
畜生道とは動物の世界、楽の少ない世界のことです。知恵がなく、性質が愚鈍で食欲・性欲・闘争欲だけを持ち、父母兄弟の別なく害し合いの世界。
この世界にいる物達の苦しみを救いだしてくれるのは宝印地蔵です。
この地蔵の右手には願い事を叶えてくれる如意(にょい)、左手にはあらゆる苦難を取り去る宝珠。両手で幢(とう)を持つ宝印地蔵もよく見られます(大光明地蔵/宝処菩薩)。
如意とはわらびの形をしている先端が巻き曲がっている具のことです。木、竹、角、鉄、銅等で作られていて、読経のときの講師の僧または灌頂(かんじょう)のときの大阿闍梨(だいあじゃり)などをたずさえる具。
餓鬼道(がきどう)とは地下およそ500由旬(5600km)の閻魔の界辺が本拠地で常に飢餓に苦しむ世界。
食べようとする物は全て火に変わるあるいは針のような物におわれて飲み込む事が出来ない。
実に苦しい道だがダイエットを考えてる方には最高の世界。
右手には求めるものを与えてくれる与願(よがん)、左手にはあらゆる苦難を取り去るそしてその世界の暗闇に光を(照らす)投じる宝珠。
与願(よがん)とは手のひらを前にして、そろえた五本の指を下に向ける印相のことです。元々「願」は真実の悟りを求めている修行者の意味でしたが、今は「願いを叶えます」という意味が含まれるようになった。
与願印ではなく施無畏印のポーズの宝珠地蔵もいる(大徳清淨地蔵/宝手菩薩)。
地獄道(じごくどう)とは現世で悪業を犯した者が死後、その報いを受けるために落ちる地獄です。度合いによって落ちる地獄が決まります。八種類の熱い地獄と八種類の寒い地獄があって、最下位の地獄に落ちるまでになんと2000年かかります。その長い期間の間に、それはそれはとんでもない臭いにおいを吸うことになります。墜ちたところは極苦の地獄で、無間の苦しみを味わう事になる。最も「軽い」地獄でもかなりハードな刑が待っている:五体切断の刑。冷風を浴びるとすぐに蘇生し、また、同じ刑を受け続ける。
この地獄に堕ちたの亡者の苦しみを救いだしてくれるのは檀陀地蔵です。
このお地蔵さんの左手には仏智(ぶっち)の象徴の錫杖、右手にはあらゆる苦難を取り去りその世界の暗闇に光を(照らす)投じる宝珠
錫杖の先っぽのわくに数個の輪が掛けてあります。揺れるとジャラジャラという音が出るようになっています。それはなぜでしょうか。
遠い昔、仏教の発生地のインドでは、旅に出る人々は必ず杖を持って出かけていました。それは武器の一種というだけではなく蛇除けでもありました。金属製の音が嫌いな毒蛇の多いこの国ならの必要品でした。杖を振りながら歩いていると毒蛇に出くわすことはありませんでした。そこから、魔を除ける道具となりました。
蛇が嫌がるこの音は地獄に堕ちた死者にとって、いくらか安らぎを与えてくれる音として感じられているとも言われるようになりました。それは、あらゆる苦難を取り除いてくれるお地蔵さんが近づいてることを表していたからです。
交通事故にあった所とか、道端に錫杖を持ったお地蔵様が、一番多いのは誰かの供養に、お地蔵様を作るときに、その供養される人が、六道の中の天上に行くかも分からないが、ひょっとして一番下の地獄に行ったときでも救っていただきたいというので、檀陀地蔵という、錫杖を持ったお地蔵様をつくるのが一般的なのです大定智悲地蔵/地蔵菩薩
大定智悲地蔵/地蔵菩薩とも呼ばれています。